「英語ができる」となぜ「クール」になれるのか
2020年度から、日本の大学入学試験は基本的に変わるはずだった。英語が、大学受験の「センター試験」からはずれ、TOEFLやIELTSなど、世界に通用する英語力テストのスコアで判定されることになるはずだった。これは、日本の「ローカルな英語」から「世界で認定される英語」になるはずだった。これが、日本の文科省の英断??でとりやめになった。
これまで、日本人の誰もが言うように、「中学・高校・大学と10年も学習したのに、『英語が少しも話せない』」という状況だったが、これが改善されるということを意味していた。しかし、この文科省の英断??で、英語のいわば」「鎖国状態」が続くということを意味する。言葉を変えると、日本でのこれまでの英語の学習・訓練は、これまで、「共通語 Common Language」としての英語の習得にはほど遠かったが、これからもずっとこの「ローカルな英語」、すなわち「世界で認定されない英語」として存属するということだ。
2020年度から、日本の大学入学試験は基本的に変わるはずだった。英語が、大学受験の「センター試験」からはずれ、TOEFLやIELTSなど、世界に通用する英語力テストのスコアで判定されることになるはずだった。これは、日本の「ローカルな英語」から「世界で認定される英語」になるはずだった。これが、日本の文科省の英断??でとりやめになった。
これまで、日本人の誰もが言うように、「中学・高校・大学と10年も学習したのに、『英語が少しも話せない』」という状況だったが、これが改善されるということを意味していた。しかし、この文科省の英断??で、英語のいわば」「鎖国状態」が続くということを意味する。言葉を変えると、日本でのこれまでの英語の学習・訓練は、これまで、「共通語 Common Language」としての英語の習得にはほど遠かったが、これからもずっとこの「ローカルな英語」、すなわち「世界で認定されない英語」として存属するということだ。
「共通語 Common Language」としての英語とは、日本人と英語圏で育った生徒どうしが、日本人生徒どうしが英語を共通語として、自然に意志疎通ができるということだ。日本人生徒は「共通語 Common Language」としての英語の習得にはほど遠かったが、それが、日本人生徒が海外に留学し、海外の生徒も交えてクラスでデイベートしたとき、やっと「英語が共通語」だと自覚することができるきっかけだった。つまり、このとき初めて、英語で意思疎通をすることができたことを実感し、経験したということ。
留学したアメリカの高校で、自分の意見を英語で発表せざるを得ない状況に追い込まれて、おそるおそる英語で発表する。このときやっと、「英語は他の人と意思疎通のできる共通語なんだ」と理解することができたということ。受験や教育に関する会合で日本の高校の先生と話すとき、こんなことを言ってくる先生がいる。「うちの○○ですが、カナダでの学期留学 (約3か月間) から戻ってきたのですが、見違えるように積極的になり、自分の意見を言うようになりました。この春、生徒会長に立候補しています」とか。あたりまえでしょう!その日本人高校生は、このカナダでの留学経験を通し、これまの硬い受験用の英語ではなく、共通語としての英語で意思疎通をすることができた、こう初めて実感・経験したのだから。それを知らないのは日本の高校の先生だけかもしれない。
生徒は、「共通語 Common Language」としての英語を、生きた英語として自覚した。
beyond japan with fsi
なぜ今、日本で「共通語としての英語」を使えることが「クール」なのか。一度、「鎖国(さこく)」を解除して「開国(かいこく)」の空気を味わえば、日本の幕末・明治維新と同じで、その新しい「波」に乗るしかない。自分を、意見を英語で発表せざるを得ない状況に追い込み、おそるおそる英語で発表する。それを同じ日本人の友人が耳にする。そして、あなたを見上げるはず。 このようにして、「共通語としての英語」をからだで覚え感覚で感じる、こんな事なかなかできない。だから「クール」。